Sunday, September 13, 2015

広告と因果関係と統計

備校の広告などで、よくこんなアオリを目にする。

志望校合格率97%!難関大学合格率80%!

さて、この広告に着目すべき点はどこか。
今週の東洋経済で「たった1日でわかる経営学の教科書」という特集が組まれていた。主だったポイントは、正しい統計の読み方をしよう、とか、因果関係を明確にしよう、などの基礎的な考え方の解説だったが、それらは、社会人として生きていく上で、基本中の基本でありながら、多くの人が実践できていない、実に大事なことだった。

ほどの広告の97%という数字。まずこれは、一般的な予備校としては非常に当たり前の事だと気がつけるかどうかで、 数字と商業のセンスが問われる。そもそも、予備校とは商売なのだ。商売なので、顧客(予備校に通う生徒)の満足度を向上を行う必要がある。予備校の顧客の満足度向上とは、すなわち、浪人せずに可能な限りレベルの高い進学先に合格することだ。そして、一番気をつけるのが、進学に失敗すること。失敗とは、浪人ではなく、受験を諦めることだ。つまり、現役合格も浪人も、合格は合格であり、結果が出るまでは「ノーカウント」ということだ。
まず、これで一つの数字が見えてくる。

100%-97% = 3%
この3%は、最終的に進学できずに予備校を去った人で、かつ、受験直後に予備校を去った人の割合、ということだ。夏など受験シーズン前にやめた人や、短期の集中講習の生徒は含まれない。もしかしたら、受験に失敗して3月いっぱいで予備校を去った人だけの数字かもしれない、ということだ。実に困難な条件である。

また、もう一つ気をつけたいポイントとして、予備校は「冒険をさせない」ということも念頭に置きたい。模試の判定が怪しい進学先を受験するときには、必ずセットで、確実に合格しそうなすべり止めを受けさせる。予備校に行っていた人は、現役合格できず浪人したらこの世の終わり、くらいに刷り込まれていたのではないだろうか。
かくして、このように合格率97%は作り上げられるわけだ。
では、もう一つの数字、難関大学合格率80%とはどうか。

関大学。そもそも、どこから難関大学なのだろうか。
大学を例に取れば、偏差値50前後の人にとって、大学の偏差値60前後へのチャレンジは、十分に難関といえるだろう。平均偏差は文字通り平均分布を表しているので、受験生の平均の偏差値は50だ。

2015年の偏差値を見ると55-60前後の学校ならば、國學院や成蹊、日大、明治大学の一部、となる。どうだろう。明大は厳しくても、國學院や日大は行けそうではないだろうか。割合としては、受験生の上位20-15%程度だ。十分に難関と言っていいだろう。

つまり、予備校の謳う難関大学とは、予備校の基準で決められているのだ。
ちなみに、東大の偏差値は、入りやすそうな所で、文Ⅲで74、理Ⅱで72だそうだ。割合的には、受験生の上位2%となる。

ちなみに、その他広告で見かける「顧客満足度95%」とかも、目くそ鼻くそである。アンケートや統計を穴が空くほど精査して、そういう数字を拾ってくる仕事を依頼される事がある私が言うのだから、間違いない。犯人の自供と同じ程度の重みを持つ言葉だ。


こまでで、まず一般的に用いられる広告の統計的なトリックを書いてみたが、さらに重要な事が一つある。それは、因果関係だ。

週刊東洋経済から凡例を拝借して掻い摘んで言うと、こうだ。

「朝早く起きて読書をしたら学力が向上した」
 これを広告風に書くとこうなる。
「早起きしたら学力が向上した」

因果関係が「読書」にあるのか「早起き」にあるのか、或いは双方かは、追跡調査などで精緻な分析を行わなくてはならないが、少なくとも嘘ではない。

予備校のケースを想像してみよう。
予備校生は、勉強はもちろん、合否予測や受験テクニックまで手取り足取り指導してもらえ、確実に合格できそうな進路を探してもらうことまで出来る。これに対して、予備校に通わない人は、全て自分で行うわけだ。受験テクニックも合否予測も、始めて経験する素人の本人が行うことになる。まず、この時点で、予備校生は有利であると言える。
また、予備校に通うということは、ある程度の金銭的な余裕があり、進路に対しての危機感が強いとも言える。

ケースA:
進路とかどうでもいいよ
ケースB:
予備校でも何でも通って、何が何でも大学に行く

上記のAは予備校に通わない人のケース。Bが予備校に通う人のケース。そもそもの家庭の方針や事情といった因果関係も考えると、予備校に通ってる時点で、既に受験で成功を得る条件が高いことが分かる。受験で成功したいから予備校に行く。受験に関心のない人は行かない。よって、予備校に通う人は大学に進学する割合が高くなる。非常に明快な因果関係である。

時代は、学校余り、労働力不足である。正直なところ、進学でも就職でも、贅沢を言わなければ、行き先は選び放題なのだ。


うだろう。これで、電車の車内広告に書かれた数字に疑いの目を向けることが出来るようになっただろうか。
加工済みの数字は、必ず裏を読む必要がある。未加工のデータの羅列ですら、データの取り方自体が因果関係によって偏向している可能性がある。そこまで考慮して、自分の知識や経験を総動員して、やっと見えてくるのが「自分なりの」数字の信頼性なのだ。数字は嘘はつかないけれども、真実も伝えてくれない。もちろん、会社で配られるレポートも、例外ではない。数字を見やすいように加工した人がいれば、必ずその人の偏向が入る。国や大企業の発表だって同じだ。
 どんな些細な数字も、本当に価値を持つのは、自分自身で納得がいくまで調理してからの話なのだ。

Sunday, August 30, 2015

花も実もない人生だけれど

く「犬死さんなんでも出来てすごい」と言われる。
たしかに、自分はわりと器用に何でもこなすけれど、別にすごくはない。エンジニアリングでも何でも、もっとすごい人は山ほどいる。自分は、ただ、目の前で必用だったことと、必要十分になるようにこなしてきただけで、その必用なことというモノが、他の人と違っただけだ。

べからず人間には、同じ時間が与えられている。私の10分も、ザッカーバーグの10分も、等しく同じ10分間だ。では、同じ10分を過ごしていて、なぜ私は私で、ザッカーバーグではないのかといえば、答えはシンプル。それぞれ、別の10分間を過ごしているからだ。ザッカーバーグが密度の濃いビジネスを行っている10分に、私は漫画や小説を読んでいるかもしれない。私が仕事に打ち込んでいる間に、ザッカーバーグはビールを飲んで酔いつぶれているかもしれない。
過去に遡れば、ザッカーバーグはハーバードに在学していた22才の頃にfacebookを立ち上げた けれど、私の22才の頃は、独立して未だ駆け出しで、右も左も分からずに暗中模索の毎日だった。
そして、私と同年代の人は、大学に行っていたり、ピカピカの新社会人として過ごしていたかもしれない。 

の20代は、白も黒もないグレーな世界だった。世界にインターネットが突然現れ、 文字通り、法的に白も黒も判別の付かない世の中だった。そんな中で、高校中退でコネもキャリアも知識もない自分が生きていくために、目の前に糊口をしのぐ仕事があれば、無条件に掴んで、掴んでから泥縄に、それに必用な知識を身に付けた。突如世界に出現したインターネットには、先生も先人もいなかった。こうして、私の10分間は「誰かに習って出来る事をする」10分間から「自分で調べて身につける」10分間に変わった。

 これは、良い事とか悪い事とか、そういう話ではない。私は、誰かに習う事を放棄して、海に出る人生を選択した。賢い人は、習う人生で基礎を固めてから海に出る。そうすれば、羅針盤の使い方も天候の読み方も知ってから航海に漕ぎ出す事ができる。私は、それをしなかった。ただ闇雲に道具だけ持って海に出て、その場その場で必用なことを調べながら航海を続けているのだ。ただただ、効率の悪い航海。きっとこれで、私は他の人よりも、10年は出遅れている。つまり私の今通っている場所は、同年代の他の人が10年前に通った場所なのだ。

そんな生き方でも、一つだけ良いことがあった。進み続けなければ死ぬ人生を選んだことで、私は、 物事から逃げなくなった。否応なく逃げられなくなった。全て自分で選択してきたことだから、全ては直接的に自分の責任になる。何の言い訳もできない。
高校を中退したから、高卒と同等の資格を取った。
大学に行かなかったから、大学で習う教科書を読みふけってきた。
いつかは大学に行って、帳尻を合わせようと思う。
仕事も、ゼロから全て自分でやらなければならない。企画や分析から始まって、実装も運営も、全て自分でやる。やらざるを得ない。お金にならないうちは、無条件でリソースを提供してくれる人など滅多にいない。だから、稼ぐためには、仕事に必用な全てを愚直に身につける以外に道はなかった。

でもできるわけではないし、何でも知っているわけでもない。
ただ、やれることや知っていることが、他の人より多いだけで、その理由も、高潔な好奇心や勤勉さからくるものではなく、ただ、やらなければ死ぬから、という、極めて純粋な市場原理に基づいた、自己中心的な理由から由来するものなのだ。

大人はよく子供に「勉強しなさい」という。
その意味を、本当に理解している大人は、どれだけいるだろうか。
その本当の意味は、勉強をしていれば世は事もなし、ということではなく、勉強をしておかないと、いつか知識が必要になった時に、その綱渡りから足を滑らせて死ぬ、という事だ。

今の私は、私のようなボンクラが、死なないように生き残ってきたことの、あたりまえの帰結なのだ。